いいえ、だれでも。

今週になってからは、震災から10日以上過ぎたこともあり、徐々に色んな事が、元に戻りつつあり、復興支援の動きもあちこちで見られるようになって来ました。

一時、長蛇の列だったガソリンも、供給量が増えてきましたし、スーパーは、相変わらず品薄ではありますが、開店と同時に入ると、一通りは揃っているので、少ないながらも出回っていることが感じられ安心できるようになってきました。

原発は、まだ目が離せず、あちこちで説明されても、まだ正体のわからない不安が残っていますが、希望的な思いの中で言えば、この恐ろしいものは、とにかく水があればかなり防げるという理解です。東京の消防のハイパーレスキュー隊の働きが、かなり私たちを救ってくれたと感謝したいです。水は、冷却してくれるし中性子も遮蔽してくれる。

関東地方の計画停電は、寒さが一段落したら、一時休止されるが、夏場にはまた行われる見通しらしい。暑さ、寒さから身を守るために、電気の恩恵をたっぷり受けてましたが、夜の明かりとしての電気の恩恵はそれこそ、空気のように当たり前に思って暮らしていたことに今さらながら気づきました。今日も、原始の夜から、文明の光を感じる1時間半を過ごしました。

   

計画停電が、1日の中に組み込まれることで、それによって色々な活動が決められて行きます。ついついだらだらと・・・にストップがかかることはありがたいことと感じています。

ツイッターでの自分のつぶやきは、最近減ってしまいました。というのも、フォローしている人のリツイートがたくさん来て、それを見ているうちに時間が過ぎてしまうからかもしれません。

そんな、あるとき、リツイートで見つけた言葉

『雨でも外に出ず、風でも外に出ず、雪でも夏の暑さでも外に出ず、丈夫な心を持ち、東の電力会社が下手打てば、寝る間も惜しんで叩き、西に品物あらば我先にと買い溜めし、南で募金する人あらば売名だと妬み、北で放射線が漏れたと聞けば産地の食品を敬遠す。そういう人には私はなりたくない』

震災以来、テレビで繰り返し流れる、公共広告機構のCMで、一番心に残るのは、金子みすずの「こだまでしょうか」です。

ツイッターの詩に出てくる”そういう人”に私もなりたくないけど、実際はこういう人が多いから、なりたくないという気持ちが生まれ共感を呼ぶのでしょう。私もそういう人になりたくないけど、一部私もそういう人であるから、そういう人にならないようにと祈りたいと思います。

「こだまでしょうか」では、人というのは、状況によって変わることを感じさせられます。やさしくいえば、やさしく答える。そして、そのことは、だれでも。

反対の状況を作らないように日々を送りたい。

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