カテゴリー別アーカイブ: メモリアル

大阪行き

先週、母に会いに大阪に行って来ました。

コロナ禍で、1年に1回行ければいいような状況が続いていましたが、ようやく抜けられそうな方向が見えてきました。年齢を考えるとあと何回会えるのかなと思うと、後悔のない時間を過ごしたいとの思いが募ります。幸い母は今のホームに馴染んできて元気にいてくれたのが本当にありがたいことでした。

今回は2月8日が父の命日なので、その日に面会の予約を取り部屋まで入ってゆっくり1時間半集うことが出来ました。父が亡くなってから早20年という年月に今更ながら月日の経つ早さを感じます。

母の状態は、耳がかなり聞こえづらくなっていて会話が中々成立しないのがもどかしくなっています。それで今回は、ひと工夫してホワイトボードを使って筆談を試みました。認知度も確かにかなり下がっていることは否めませんが、私の顔は近くでみて「本間にK子や」と嬉しそうにしてくれました。聞き取れていなさそうな時は、ホワイトボードに書くとしっかり伝わりました。作戦成功です。

もう一つ踏み込んで、母にもホワイトボードに何か書いてもらおうと思いペンを向けましたが、意欲を見せるもののうまく持てなく、それでも5文字ほどゆっくり書けましたがそれが限界でした。しかし、やってみようと思う気持ちがあったのが嬉しく思いました。

帰る時は、施設の出口まで車いすの母と手をつないで歩き、見送ってくれました。

***戻って1週間。今朝、私の心をつかんだNHK朝ドラの言葉「ほっといたら消えてしまう気持ちを記録に残したい」ー全くこの思いで、このブログが長く続いていると思います。

お祝い袋の製作

今年の夏休み、長引くコロナ禍で世代間訪問交流はお決まりのことではなくなりましたが、長女、次女それぞれささやかな交流が出来ました。

次女一家は、1歳のYKちゃんを連れて訪問してくれて、楽しいひと時が過ごせました。この年齢の成長はめざましく、出来るようになったことを賞賛しまくっています。だからなのか、YKちゃん、パチパチとおじぎも上手。

長女の方の孫は、小学生2人のこともあり、ここは慎重にと予定はありませんでしたが、小1の子の7歳の七五三を前に、家族でスタジオ写真計画をしたとのこと。その前撮りがあり、持ち物の関係で一瞬、うちに立ち寄ると前日の夕方に知らせがありました。

そこで浮かんだのが、七五三のお祝。11月に渡すつもりでしたが、前撮りの今渡すのも悪くないなと思い立ちました。が、問題はお祝い袋です。・・・在庫はありません。中身が主だから普通の封筒で?それは、選択外。

そこで、思いついたのが家にあるもので作る、もし上手くできなかったら今回渡すのはやめるというもの。今の時代、ネットで検索すれば色々出てきます。家にあるもので作れて、私でも作れるものを探し、何とか完成にこぎ着け、翌日無事渡すことが出来ました。あり合わせなので、配色といい会心の策ではありませんが、俄か製作にしては使えるものになったといううれしさはあります。第三者の反応として、まず夫に、そしてたまたまこの時間帯にメールのやりとりをしていた友人にも見てもらい使用に踏み切りました。

*その友人からの要望もあり、作り方を紹介します。

1,折り紙を4枚用意(柄2枚、無地2枚)し、上下を細い両面テープで其々つなぎ、左右も縦1本でつなぐ。

2,上3㎝、下4㎝をカット。次に左10㎝、右8.5㎝に縦に山折りして折り線をつける。

3,上1.5㎝、下2㎝を山折りし、折り目を付け、真ん中を↓のようにカットする。

4,折り目を折って、ひっくり返して裏返したのが前面になり、大きく糊付けする。封筒の形になるので、上下のふたも糊付けして仕上げる。

5,封筒の形が仕上がったら、細いリボンを2本用意(24㎝、37㎝)。短いリボンを封筒の後ろから真ん中の継ぎ目が隠れるように前に持ってきて重なりを両面テープで止め、つなぎ目の上に長いリボンで作った蝶結びのリボンを両面テープで取り付ける。

6,最後に真ん中の文字を書く白紙、3㎝幅、19.2㎝を用意する。上部を両面テープで貼り付け仕上げる。

千の風

「しばらくぶりですが、今度家の方にいらっしゃいませんか?日曜日の午後はいつでも空いていますので」と電話があったのは、先月の半ばごろでした。近隣の市に住む、夫の従妹に当たる方からで、同じころに結婚と同時に関東に住み着いたというのが共通点で、年齢も近いことから、子どもの小さい頃にはよく行き来していた方です。

しかし、ここ10年のうちでは2,3回位。ちょうど2年位前にその方の他県に住むお母様が一緒に住まれるようになったので、暖かくなったら遊びに来てくださいと連絡があって以来。その後、世の中はコロナで大騒ぎで、人の行き来は大幅に制限されることになりました。

コロナが下火になり、早速またお誘いくださったわけですが、こちらも色々と立て込んでいたので、11月の上旬にと少し引き延ばし、先週の日曜日に夫とお邪魔しました。お宅に伺うのは、とても久しぶりでしたので、知っているつもりが、街の様子も変わっていたので迷った末の到着でした。

89歳のお母様を囲んで、郷里の高岡の思い出話を沢山しながら、楽しい会話が始まりました。「○○さん(夫の母)はあの時はあなたのこと喜んでたがや」「こっちにも海があるけど、なん、向こうの雨晴の海の方がどれだけきれいかと思う」とか。でも、この方の恵まれているのは、二人のお子さん家族、5人のお孫さんすべてが現在関東に住んでいて、4人のひ孫さんはごく近くにいらっしゃり、それぞれよく訪ねてくださって賑やかにお過ごしであるということで、私たちにも、「近くやし、また遊びに来てください」と言ってくださいました。そして、「今は100まで生きる時代やから」と2,3回話されていたのは印象的でした。

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それから、1週間もたたない一昨日のことです、訃報が入ったのは。耳を疑いましたが、トイレで倒れ、救急搬送後、程なく亡くなられたということです。日頃から、最後はそういうのが良いと言ってたから本当にその通りで良かったと言われましたが・・・

人はとても儚いものであり、人が生きているのは生かされているのだなと改めて思わずにはいられませんでした。明日はお見送りしますが、よい人生の最後を見届け、生きる者の感謝の思いを新たにしたいと思っています。

1年4ヵ月ぶりの大阪

前回大阪に出かけたのは、2020年の6月。

コロナ禍が少し収まっていて、母が入院先から新たなホームへと移るタイミングで出かけて以来です。まだ不要不急の移動は控えるように言われていて、ホームの方も入所のために特別に入らせてもらう感じで、追加の届け物の時は、もう入れないような状況でした。

その後、それでも母とは毎晩の電話があったので、繋がっていられました。しかしその後、状況は変わり、母との電話は絶たれていますし、緊急事態宣言中のサービスであるビデオ通話も今はありません。というわけで、第6波が来る前にと出かけました。

大阪行きは、1年4ヵ月も過ぎたとは思えないくらい、慣れた旅でしたが、町の様子は色々と変化がありました。最寄り駅周辺の建物や、新たなお店など。「町は生きている・・・」が実感できました。

行き帰りのほかは中3日滞在し、1日目と3日目の2回ホームを訪問する予約をとりました。兄からは、顔はわかっても会話が出来ないくらいだったと聞かされていましたが、感動の再会場面は、

「だれかわかる?」「いや・・・」「K子やで」「え、ちょっと顔見せて」フェイスシールドの下のマスクをとると、「K子の顔やわ!」「神奈川県から来たんやで」「何で来たの?」「会いに来たんやで。コロナでずっと来られなかったから」「そう。来てくれたん」と、やっとうれしそうな顔になりました。

その後、自ら起き上がり、一緒にアルバム写真を見て色々思い出してくれたようでした。大音量でつけっぱなしのテレビは入ったときに切りましたが、リモコンを渡して操作を促したところ、興味を持ってつけたり消したりし始めました。最近、この操作にも関心を示さなくなっていたのですが。

2回目の訪問時には1つ計画があり、実家マンションと自分の実家の写真、それとひ孫たちの写真集を壁に貼っていつでも見られるようにしました。母は、色々思い出して来たと言ってくれました。また、たまたま見つけた、100均のマグネットフレークで、冷蔵庫の壁にメッセージも残すことが出来ました。この日も、テレビのリモコンへの興味は保たれていて、手元に置いていたので、不自由な暮らしの中でも少しでも楽しみを見つけていられるようにと願いつつ部屋をあとにしました。

ちょっと余談ですが、100均マグネットフレーク。自宅用には日本地図を購入。各県ごとのピースパズルになっていて、さっそく冷蔵庫にはりつけると、オシャレで楽しく、中々すぐれものと満足しています。

秋の公園

3連休の最終日、長女が子どもたちを連れて家に立ち寄りました。前からの計画で、家近くの総合公園のふれあい動物園に連れて行くためです。

お土産を渡して見送るつもりでいましたが、この日は台風が去った後の爽やかな秋晴で、家にいるのはもったいないようなお天気だったので、一緒に行ってもいいかしら?と、迷いつつも行くことになりました。

この公園は駅方面に行く時にいつも横を通るところですが、ふれあい動物園や子供の遊具のあるエリアには随分長らく行ってませんでした。今回は、メタセコイアの並木道に近い当たりに車を止め、そこから進んで行きますと、まるで初めてのところに来たかのように新鮮な感じがしました。わんぱくランドの手前にバードウオッチングができるコーナーがあり、わんぱくランドは最近リニューアルしたようで、随分魅力的な遊具が並んでいました。そして、子供連れの来場者がたくさん訪れていて、びっくりしました。

ふれあい動物園は予約制で整理券をもらって、15分間入れます。ポニーの乗馬発券も数に限りがあり、午後は1時から販売開始でほどなく終了となりました。

長女は計画的に事を運んでいて、整理券とポニーの券を並んで手に入れ、檻の小動物を見て、お昼の場所を確保し遊具で遊び、午後はふれあい動物園で、モルモット、ひよこ、ハムスターなどを膝に乗せふれあって、ヒツジとヤギにえさをやり、ポニーの乗馬を楽しんで帰るというコースでうまく進められました。

目が届く範囲で子どもが楽しめるのが良かったと思います。木々も茂っていて森林浴もできますし、松ぼっくりやドングリ拾いも楽しんでいました。

もちろん、マスク、手洗い、手の消毒の感染防止対策はみなさんとっていましたので、危険を感じることはありませんでしたが、早く以前のように心配なくあちこちの公園をもっと楽しめる時が戻りますようにと願いました。

母のこと

昨年よりのコロナ禍で生活スタイルが激変していることもありますが、母との交流も随分変わってしまったことを思います。

母は父が亡くなった後は、一人暮らしの日々を14年ほど過ごし、5年前からは北海道在住の兄が大阪に仕事を見つけ、単身赴任の形で北海道と行き来して一緒に住むようになりました。

父が亡くなった直後から、足のしびれなどが出ていて、年齢と共に筋力も衰えるようになり、兄が住むようになる2年位前頃には、スポーツジムはやめ要支援の認定を受けて、デイサービスで足を訓練するスタイルに切り替えていました。一人暮らしに不安を感じるようにもなっていたと思います。

それで、離れて住む私の出来ることとして始めたのが、実家への帰省を増やすことと、毎晩定時に電話することでした。帰省の回数は遠方でもあり、年4,5回くらいにしかできませんでしたが、電話の方は、欠かさず日課となり、その日のことを語り合うことでお互いに安心することが出来ました。これは、兄が住むようになってからも、ホームに入るようになってからも、入院の時も、こちらが旅行の時も、かけられない事情のある数日を除いて毎日続きました。

しかし、ここ1年は母の認知度がさらに下がったこともあり、話す内容が決まってくるという感じになり、今年の1月には電話がなかなか取れない事態も出てきていました。ホームの人に様子を見てもらいやっとという状況でした。自分で取れた最後の電話では、「ああ取れて良かった!この頃、目も指の力も無いから」と。約2,700日の母と私の電話交流が終わりました。

そして、全くつながらなくなった数日後にホームに電話して調べてもらったところ、携帯電話が紛失していることがわかりました。電話で話せず、面会も出来ないとなると、母とのつながりが絶たれてしまうと焦りましたが、コロナ禍でもありホームの方で、ホームのタブレットとのラインビデオ通話を予約して利用できることを知り、今はそれを月に1,2回利用して母と話をしています。

これは母の顔が見られるので、様子が一目でわかるメリットがありますが、電話と違って画面越しに対面して話すので、うまく聞き取れないようで、ほとんど会話らしい会話ができていません。しかし、顔が見られるだけで目的は果たしているかなと思うことにしています。このビデオ通話の初めのころは、これは何?と不思議そうに合点がいかない様子でしたが、最近では、「久しぶり、元気そうね、足が悪いのでね、また来てね」とか話してくれています。

母の顔を見る限り元気そうで、持ち前の順応性で、あまり悲観せず過ごせているなら良しと思うようにしています。母のホームは、住宅型の有料老人ホームに分類される民間のリーズナブルなホームですが、市内にたくさん展開していて、実績のあるグループの新設された施設に入れたという良さがあります。介護スタッフは若い男女の方中心で、明るい雰囲気があり、食事は厨房で作られた温かいものを、4人テーブルでいただいています。

コロナ禍だからか、もともとかはわかりませんが、催し物はあまりやらないようです。ただ、母の場合、ケースワーカーさんの配慮で週に1回、散歩をかねた買い物に連れ出してくれる(30分)というのがあり、それはコロナ禍でもきっちりやってくれているようなので1つのメリハリにはなっていることでしょう。なので、面会が出来ないなら、この時間をねらって会いに行けば、外で会うことは出来るのです。それを兄が時々やっています。

昨日もビデオ通話で母の顔を見ることが出来ました。この先、大阪に行ける日は来るでしょうか?そのチャンスを逃すことなく備えたいと思うこの頃です。


春にも秋にも咲くタンポポ

雨の日の慶事

5月は気温も上がり、爽やかな晴れの日が多いので1年で一番お出かけがしたくなる季節です。それを期待して、それぞれの予定も考慮して、Yちゃんのお宮参りを19日に予定しました。

当日集まる6人のうち、晴れ男、晴れ女が二人、曇りが1人であとは不明でしたが、あいにくちょうど雨にあたってしまいました。

コロナ禍も鑑みて、やらない選択もありますが、万全を期してやりたい想いが勝り、当日を迎えました。祈祷をしなくても参拝だけでも、短時間でもという、揺れる思いの中結局、祈祷を申し込み、恙なく終えることができました。

お宮参りの神社は、候補の2つのうち小さい方を選び、密を避けたようですが、小さくても内宮と外宮のある由緒ある神社。初めて訪れましたが、小ぢんまりとした敷地内はすっきりとしていました。

晴れていて人も多かったら、多分参拝だけで済ませたかもしれませんが、この日は予約もなかったので、Yちゃん1件のために準備してくださり、貸し切りで祈祷していただけました。宮司さんと巫女さんの二人で行われましたが、巫女さんの舞が見られたのは新鮮でした。祈祷中、Yちゃんが泣くこともなく長時間にもならず、よい時間が過ごせました。靴のまま宮の中に入り、椅子に座る式だったのも助かりました。

5月の雨の日でしたが、天気予報では、今年は間もなく梅雨入りするとか。1カ月も季節が前倒しになっているようです。何はともあれ、記憶に残るよい時間が過ごせたことに感謝です。

また、Yちゃんを抱っこしたときに、こちらの顔を見てニッコリしてくれたことで、大きな活力をいただけました。Yちゃんの健やかな成長を願ってます(バーバ)

*雨の中の我が家の植物たち

やさしい春の花

いよいよ3月になり、草木が動き出しました。

冬枯れの庭に、緑の芽があちこち。チューリップ、ムスカリ、デイジー、ネモフィラ、…秋に仕込んだ花たちは順調に芽を出しています。そして、それらに交じって知らない野草も加わって、どんな花が咲くのか楽しみです。

昨年はとうとう更新手続きができなかった花菜ガーデンですが、ようやく3月はじめに更新ができました。開園と同時にサポーターを始めたので、11週年を終えたということで、記念品などもいただくことができました。

久しぶりの園内は、早春の、眠りが醒めるときのような、静かで優しいけど不思議なエネルギーを感じる気配に満ちていました。

             

そして、その数日後、次女の初めての赤ちゃんが誕生しました。3人目の孫は、久しぶりだったので新たな感動です。小さな新生児を目の当たりにして、やさしい春の花のようにとの願いのもと、健やかに育ってほしいと心から思いました。

近況

AB163492-C0FE-4C99-8960-79D218EBA9301ヵ月以上続いた梅雨は、8月1日にようやく開けて、待ちに待った夏空が広がっています。

7月は、毎週病院の検診受診で通算3回都内に出かけたのが大仕事でした。こんなにも早く第2波が来るとは思っていなかったので、夏の安心なうちにと思ってましたが、東京だけが突出した時期で、厳重警戒で行ってきました。結果はどれも変わりなしで、ひとまずホッとしました。

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母との毎日の電話では、新しいホームに慣れて、生活のリズムが出来て来たのが伝わります。車いす生活となりましたが、3度の食事の集い、週に1回の買い物で外出できるのが、気分転換の時のようです。

会の集まりなども工夫しつつ始まり、公共の施設で3密をさけて行いました。その一方、Zoomによる会議も1回経験しました。スカイプはやったことがなかったので、パソコンにカメラ機能とマイク機能があるのを今回初めて気が付いた次第。

そして、昨日は花菜ガーデンのサポーター活動に行ってきました。9か月ぶりの花菜ガーデンは、真夏の樹木のたたずまいで、人けは数えるほど。広い芝生に、1件小さなテントを広げて、虫取り網を持った親子が楽しんでいました。エントランス付近には、鉢植えの赤と白のユリが置かれていて涼し気でした。

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ディア・レッド(サルスベリ)

活動は、百日紅がきれいに咲く場所の近くのサルビア園の除草をしました。午後からの活動なので、コロナ対策に加えて熱中症対策として首に保冷剤入りのタイ、冷たい水を持参して臨みました。いつもなら、午後の昼下がりは何もできないけだるい時間に、やる気を出せば普通に作業ができることを再認識しました。

帰りに、近くのJAの店で久しぶりに買い物をしました。産直の珍しいものがあるのが魅力の店です。今回は、摘果ミカンなるものが売られていました。大き目のスダチのような外観で、1袋税込み179円は高いのか安いのか?

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昨年の3月より始めた、健康体操のカ○○スには、一番時間をとっているかもしれません。4月と5月は休みでしたが、その後は週2回を目標に通っています。休みの後からは、密をさけて運動後のストレッチはしなくなったので、滞在時間も25分くらいの無理のない運動。しかし、自らではウオーキングぐらいが限度の私にとっては、貴重な運動時間と思い、続けています。

F1DA32E8-CB8C-4678-B0F9-E9967F06CC7C家の前の道路わきに雑草のように生えている百合の蕾が膨らんできました。そこで、今朝これをバッサリ切り花にして家に飾ることにしました。

ちょっと先行きの見えにくい今年の夏ですが、まだまだ周りは元気です。

 

私の育った所

大阪から戻って、早10日ほど過ぎましたが、今回の大阪行きでは、懐かしい場所を歩くことができました。こちらに戻る前の日、母のところへ追加のものを届けた帰りのことです。

母の今度のホームは、近鉄南大阪線の矢田駅にほど近い場所にあります。実家マンションからは、一度天王寺に出てからこの線に乗り換え5つ目の駅となります。天王寺駅から南東の地域は、私が高校1年まで住んでいた懐かしい地域。そこで、帰り道近鉄阿部野橋(天王寺駅と同じ)の1つ手前の河堀口駅で降りて、天王寺駅まで歩くことを思いつきました。

4C6DC2D3-1D44-44DD-9F87-EBCE16D2C23D河堀口駅を降りてすぐ、母校の中学があります。何十年も見ていないので周辺の建物から校舎に至るまで珍しいものでしたが、正門の位置と校舎の配置、渡り廊下は同じでしたので、その辺りが懐かしく思いました。道を挟んで向かいが、母校の高校です。この間の道はこんなに狭かったのかと認識を新たにしました。

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高校は、私が卒業した後、古い校舎の建て替えが行われ、運動場の方に校舎を建設し、元校舎のところは運動場となり、正門も場所が変わったので、私が通った頃の面影はありません。そして建て替わった校舎がすでに古くなっている感じですが、その横の道から校舎裏を眺めながら歩くと、微かに高校時代の思いがわいてきました。

AFC2EDF5-5734-4777-824B-1BD55537434Eこの横の道を進むと次に見える公園は、私の母校の小学校の分校跡に出来たものです。分校は当時、2年生と5年生が通う場所で南北に広がった敷地でした。この道の右手(北側)は広い運動場になっていて、運動会は本校校庭より広いのでこちらでやっていました。当時1学年10クラスのマンモス校の本校は、この分校の坂を下りて大きな道路の向こう側にあります。当時地下鉄道路と呼んでいましたが、今もこの道路の下に地下鉄御堂筋線が走っていると思います。

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昔もそうだったのか、坂を下りたところに信号はないので、歩道橋のところまで行って渡りました。歩道橋を下りたらすぐ、母校の小学校が、本校であった場所に現れました。午後4時過ぎちょうど下校の時間なのでしょう。一斉に子どもたちが下校する所に遭遇しました。その子供たちの姿が何ということでしょう。まるで私学のよう!帽子はグレーだし。私たちの頃も標準服というのがあり、式の日には着ていたので、その延長かもしれません。

この辺りからは住んでいた場所にも近く、懐かしさひとしおの場所に差し掛かりました。ちなみに、私が生まれた、小学校隣接の至誠会病院の敷地も、小学校の別館となっていました。

小学校の隣には私が通った幼稚園があり、その向かいに小学校の図書館がありますが、半世紀超、過ぎてその2つは昔とほぼ変わらない姿で感激しました。そこからまた戻って、小学校横の常盤公園を横目に天王寺駅方面に進みました。この公園も、半分は今の分校の校舎が立っていますが、私が小学校の頃は倍の広さの公園でした。

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92EE7098-090D-482D-AD92-EF0204B2825Eさらに進み、駅まで5分の至近距離にあった昔の住まいは今はありませんが、周辺植物にその面影が忍ばれました。また、美容院と医院の2つが昔と同じ姿で残っていました。

とても狭い地域の中で、幼、小、中、高と過ごし、長いと思うその期間は15年、大人になってからの密度の違いを改めて感じました。一度離れると、再び来る機会はあまりないので今回の寄り道はきっと記憶に残る1ページになるでしょう。