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3か月ぶりに母のところへ

0F2C8963-8432-4786-B66C-19CAC88720EC新型コロナウイルスの感染拡大防止のための、自粛、そして緊急事態宣言で、日本中がステイホームとなっていた間、ちょうど母は骨折治療が原因で悪化した足の傷のため入院していました。

心配していた足の褥瘡は、入院1ヵ月半くらいの頃でもまだ治るめどが立っていませんでしたが、皮膚に良いサプリメント的お薬を飲み始めてから、メキメキよくなってきて5月の初めにはリハビリ病棟に移ることができました。リハビリ病棟には最長60日しかいられないということなので、色々準備して先日24日に退院することができました。

母の入院中、4月からは面会ができなくなったり、世の中の大変な時期と重なりましたが、病院にいてくれることでかえって安心していられました。入院中も毎晩の電話はできていましたので。しかし、その電話は以前は20分は話す感じでしたが、病院の場合4人部屋ということもあり、5分くらいの短い電話が常態となり、話す内容も変化のないもので、ある時看護師さんとたまたま1回話した時には、認知症が進んでいますといわれる状況でした。

こういう状況も考慮して、退院先は、元のホームに戻るのではなく、より介護をしてもらえるところを探して、新しいホームに入所することになりました。

前のところに比べて、規模の大きい施設で、居室は以前よりも狭いものになりましたが、入所した日の印象は、スタッフの皆さんがしっかり、きっちりされているようで安心感がありました。病院の4人部屋になじんでいたので、ホームの個室に、戸惑いを隠せない母でしたが、ミニ冷蔵庫、チェスト、テレビを設置して部屋が整って来るに連れ、和んでくれたのでホッとしました。

入居の日は特別に家族の者が入れましたが、6月中はまだ面会ができない体制のようで、不足のものを翌日ホームの入り口まで届けました。

大きな変化は毎日の電話です。話す内容が、徐々にしっかりとしてきています。こちらから差し入れしたものの確認をしたりして、海馬は弱っているかもしれないけれど、まだまだ思考力は十分あると感じられるのがうれしいことです。

母の入院の顛末

日本が、いえ今や世界中に広まったウイルスの影響で、お出かけ、集まりが自粛される3月ですが、母の突然の入院の知らせがあり、生活の変化に伴う応援のため、移動に注意しつつ、大阪へ行ってきました。

今回の母の入院は突然の出来事です。病名は、足の褥瘡の治療のため。そもそも、始まりは11月に母が転んだことから始まります。どの程度の転倒かは本人しかわからず、様子からして骨折はしていないものと思われていて、この頃は、湿布薬のみ。1月に母のところへ、行ったときに右足が曲がっていたのが気になり、その後のしらべで骨折がわかりました。

整形外科医院で、応急のギブスをし病院を紹介されたものの、さらに違う病院に回され、その病院では手術しても回復はむつかしいと諭され、2月から自然治癒を促す超音波治療を始めたところでした。この超音波治療は、機器をレンタルし家で1日20分患部にあってる治療です。

これを、ホームに了承してもらって行っていたところに、今回の落とし穴がありました。母の骨折は足首で、下肢を覆うギブスは上半分を切り取り包帯で巻いて固定していましたので、超音波を当てるときはギブスを外し、終わったらかぶせてまた包帯を巻きなおすということを行っていたようです。

毎晩の母との電話で様子を聞いていましたが、5回目が過ぎたころ、足が痛と言っている時がありましたが、次の日は大丈夫と言っており、ギブスが当たっている場所が痛いのがそんなに大事にいたるとは想像できなかったのです。

父が亡くなったあと1人暮らしであった母の後見人としては、現在近くにいる兄が主として受け持っていて、対応に当たっていましたが、兄がホームの人の話から危機感を抱いて病院へ連れて行くまで、1週間が過ぎていました。その間、訪問看護の医者も来ていましたが、大した傷とは感じていなかったようです。

かかりつけの病院に見せたところ、これはひどいといわれ詳しい検査の結果骨髄炎は起こしていなかったのが幸いでした。ドクター曰く、この褥瘡はなかなか治りにくく、骨折してることを考えると切断した方が早く治るといわれたそうです。

この言葉は、なかなか衝撃的なものでした。もちろん、足として機能しなかったとしても、命か足かという事態にならない限り、治療してくださいとお願いして、治すための緊急手術をしてもらい入院となったわけです。

病院へ行った時の母は、事態を正確には把握していなく、私が行った時には案の定明日にでも退院したいようなことを言い始めていました。しかし、簡単には治らないことは実感しているみたいで、退院してしっかりケアーしてもらえるところがあるかの心配をしていました。

母も、2年前の入院のころから認知症が始まっていると感じられるようになっていますが、印象としては脳を働かせる領域が徐々に減ってきているというのが実感です。徐々に衰える頭と体を少しでも活用させて日々を送るのが、年老いての暮らしなのだと感じます。

現在、入院から10日ほど過ぎ、治ってきているものと思っていますが、年をとってからの病気は色々な意味でハンディがあります。母は入院することになる前の晩の電話でも、大したことないと言っていました。年をとると、痛みにも鈍感になる・・・のかもしれませんが、もともと物事を楽観的にとらえる人であることを考えると、徐々に狭まっていく生活の中で、小さな楽しみを見つけ希望を持って暮らしてほしいと思います。

 

金のなる木に花が!

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関東に戻り、春を迎える楽しみの、我が家のチューリップ…ですが、何ということでしょう!覗いてみたら、葉っぱばっかりなんですよね。肥料の加減?

実は、昨年もそうだったのですが、いつもと違う店の球根だったからと思っていたのですが、原因はこちらにあったのですね。今から何か手を打つことはできるかしら?

 

2月の大阪行き

2月になって、コロナウイルスが騒がれる中、大阪へ予定通り行って来ました。

1月には、1回目大阪から帰ったあと、母の足首の骨折がわかり、病院の診察のためにすぐに2回目行きましたが、結果としては手術しないでギブスのみで様子を見ることになりました。高齢者と医療について考えさせられる体験でした。

今回の滞在5日間は、一段と不自由な日々にもやや慣れて来た母との静かな語らいの時間を過ごしました。1月は母の誕生日に行きましたが、2月は私の誕生日を含む日程で、かろうじて私の誕生日を思い出してくれました。

また今回の日程の全期間、冬晴れで大阪は暖かい日が続きました。母のホームへ最短で行ける川沿いの道はそろそろマンネリ化してきたこともあり、周辺の地理がわかってきたので今度は南の商店街の道などを探索しながら歩きました。17時にホームを出てからの帰り道では、日没と競争のような感じで1時間さ迷うとさすがに焦りましたが、スマホのマップの位置情報を見ながら歩き、新たに色々知る事が出来ました。

南の商店街はその長さで有名のようですが、平日は閑散としていました。シャッターを下ろしているところも多く見られました。古い大きな神社やお寺が所々にあり、戦災を免れた町であることが感じられました。以前あった主婦の店のところにはマンションが建っていました。

しかし、どこを歩いてもかなり遠回りとなり、川沿いの道がいかに最短コースであるかがよくわかりました。

母のホームへ通う以外は、家の補修や母の服の補修を楽しみました。

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要注意の新大阪駅に注意し、行きはこだま号、帰りは新大阪始発のひかり号で安全に戻って来ました。中国人旅行客がいなくなっているからか、あちこち空いていました。

母の誕生日

お正月3が日が過ぎるとほどなく母の誕生日が来るので、今回はそれに合わせて大阪に行きました。単身赴任のように大阪で働く兄もお正月は札幌に戻るので、実家マンションは留守宅となります。まず、母宛の年賀状を取り、苺とケーキと飲み物持参で母のところへ行きました。

E7803BE1-599D-4365-B7EC-11EF494DF8DB11月に転んで以来、ベッドから車いすに乗り換え移動する生活になっていましたが、その動作にも慣れ、変化のない暮らしと言いながらも規則正しいタイムスケジュールで暮らす母は、私の訪問を喜んでくれました。しばらくしてささやかなお祝いテーブルに気づいて、お誕生日のお祝いねありがとうと言って、苺やケーキを美味しそうに食べてくれました。

次女からお祝いを言いたいからとメールが入り、さっそく電話を取り次ぎ、嬉しそうに話していました。長女からはお菓子のプレゼントと手紙が届いていたので、お礼の電話をしなくてはと、引き続き電話をして、楽しいお誕生日となりました。

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さて今回の大阪行きでは2つの新しい発見がありました。

18852064-BAA3-4B6D-B2EE-DA2461709CF31つは市内にある実家マンションまで、新大阪からの新ルートの発見。今までは最寄り駅まで、大阪駅と天王寺駅、2回乗り換えて行きましたが、いつの間にできたのかおおさか東線という線が久宝寺まで走っていることに気づきそれに乗って行きました。これだと久宝寺で1回乗り換えるだけで行けます。所要時間は大体同じくらい。大変気に入って帰りもこのルートで帰りました。

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滞在の中3日間JRを使ってどこかへ行くことはなく、母のホームへ片道30分、前回発見した川沿いの道を徒歩で通い、その道は相変わらず別世界感に満ちていたので、今回ばかりは大阪に来た感じがあまりなく、母と私の狭い世界を行き来しているような旅でした。

2つ目の発見ー川の水鳥

こちらに帰る前の晩遅くに、兄が戻って来ました。母のことでの会話で一番気がかりのことは、母の転んだほうの足(下肢)、腫れは引いてきたものの明らかに曲がっていることでした。痛みはないということでしたので不思議でしたが、その後の整形外科の診察で骨折がわかりました。

病院での再診には親族の付き添いが必要ということで、明日再び大阪へ向かいます。

今年のお正月

ぬ関東地方は、今年も冬晴れ快晴の三が日でした。

お節をいただき、年賀状をながめ、箱根駅伝で馴染みの風景を楽しみながら、二日には娘たち二家族が訪問で賑やかに過ごしました。

A294FE8A-2BB6-4DD6-AACE-FE60AC7ABB20おせち料理は、昨年のお正月は体力を考えて、初めて注文お節を試みましたが今年はまた元のスタイルで、作りたいお節を計画し、購入したのと合わせて重箱に詰めました。昨年の注文お節には詰め込み方など、学ぶことがありました。

15種類詰めて、そのうち10種類が手作りです。久しぶりに料理に追われる年末となりました。

年末メモより

  • 26日 年賀状投函
  • 28日 高原花豆を煮る、大根の甘酢漬け、近隣スーパー買い物、
  • 29日 黒豆を煮る、クルミ田作り、ららぽーと買い物、塩豚ゆでる
  • 30日 近隣スーパー買い物、のしどりえび乗せシュウマイ伊達巻プルーンのワイン煮
  • 31日 パソコン作業、炒め五目煮、数の子の塩出し、近隣買い物、小豆を煮る
  • 1日  クラシックチーズケーキを焼く、

我が家の二日の集いは、次女の誕生日でもあり、新年のおめでたさと加わって、賑やかさがアップします。

 

3歳から70歳まで3世代8人のお祝いの集いを感謝の気持ちで過ごしました。三日の富士山は、まずまずの穏やかさ。明日からは、大阪の母のところに向かいます。

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イブの日に

珍しく冬晴れの今日、道を歩いていて、ふと、20年余り前に住んでいた京都の哲学の道のことを思い出しました。哲学者がその川沿いをよく散歩していたことからつけられた名前のようですが、道を歩くとき、想いは自由に広がっているからかもしれません。

74C16504-C62E-45EA-B57C-5DAD3C412717毎年12月は、あまり時間がありません。今年は予定も少ないし、時間があると思っていたのは間違いでした。このままだとあっという間に大晦日、そして新年へと突入してしまいます。

今年もあと少しですが、昨年と違い、穏やかでいい年でした。少しずつスローダウンしながら、いい時間を引き寄せながら、新しい年を迎えたいと思います。

 

10月中旬の出来事

10月10日から15日まで大阪の母のところへ行ってきました。単身大阪で仕事をしている兄が自宅に帰省して実家が長期留守になるタイミングを見計らっての予定で、チケットも消費増税前の9月に手に入れていました

そんな中私の叔母の訃報が入り、大阪出発の2日前に東京の葬儀に出かけました。私にとって最後の叔母で享年99歳でした。6年前に97歳で亡くなったご主人様の葬儀がついこの前のことのように思いつつ参列しました。私の従兄弟である息子さんは19年前に亡くなっており、ご家族と駆け付けた親戚だけの総勢17名で見送りました。普段は、交流のない人々とも1人の人を通してつながれる時間であり、しばし故人をしのんで過ぎ去った年月を振り返るひとときでした。

脅威の台風通過の二日前に大阪へ出発。翌日は母のホームへ。12日は大型台風なので関西も油断ならないとのことで、食料を買い込んで終日家にいましたが、幸い雨が普通程度降っただけで、強風を感じることはありませんでした。

関東直撃ということで、夫と娘たちに、電話やラインで万全な対策をとっているか夫々聞いて気持ちを落ち着けていました。対策は主に強風対策で、家回りの片付けや、窓の補強のことばかり気にしていました。スーパーの食糧がごっそり空になっているというのも聞いて、皆停電、籠城の場合の対策も多くの人が考えていることを知りました。

台風が近づくにつれ、風というよりも川の氾濫の脅威が高まっているニュースが主となり、城山ダムの計画放流のことなどが再三ニュースになって、自宅は相模川水系の流域にあるので、その夜は気が気ではありませんでした。朝になって相模川は氾濫していなかったのがわかりホッとしたのも束の間、他の沢山の川が氾濫していてあちこちで被害が出ていたのには、全く絶句としか言いようがありませんでした。その後日を追うごとにその被害の全貌が大きく報道され、今回の台風が今まで経験したことのない雨台風だったことを知ることになりました。

温暖化が言われる中、今後の対策をどうするか。老人が増える世の中ですが、知恵を求めるしかありません。

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台風が去った翌日、大学時代の友人と大阪駅で待ち合わせして、8年ぶりに再会しました。午後1時から、ランチ3時間。話すことがお互いに山のようにあり、もともと似た状況もいくつかあったこともあり、話すこと話すこと「同じ同じ」を連発しながらあっという間に、近況報告だけで終わりました。

いつも通過するだけの大阪駅、改札を出て一回りする世界は未知の世界でした。8年前もすでに現在のようであったかもしれませんが、今回は待ち合わせ1時間前に来て散策したので、全貌がわかりました。時間のたつのは早いし、風景も刻々と変わって行くのを感じます。

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今回の大阪行きでは、母のホームへ行く新たな道を発見しました。実家マンションから、ホームへは直線距離で2kmですが、あいにく車は無く自転車も置いてません。なので最寄駅から一駅乗って15分歩くか、1時間に1本の国道を通るバスに乗るかのどちらかでしたが、国道沿いに歩いても30分で行けることがわかり最近ではそれも行き方の1つになっていました。

今回見つけた新たな道は、母のホームの南側に小さな川が流れていてその川が、実家マンションの横を流れている川であることに気づき、川沿いの道を通れば行けるかもと思い実行したところ、立て込んだ街中のオアシスのような側道がずっと続いていて、マンションの横の神社の公園まで来ることが出来ました。この道はなかなか癒しの道です。

14日の日には、和歌山の親戚の人が母を訪ねてホームに来てくださいました。父方の本家の人たちで、短い時間でしたがありがたいことと、感謝の思いでいます。

短い間に様々なシーンがある、充実した大阪滞在でした。

 

 

夏の大阪行き

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富士川

昨年の夏には、実家大阪には行けませんでしたが、今年は行ってきました。

一昨年に、毎年の行事として、8月8日の施餓鬼参りに母と兄と3人で和歌山に行ってきたことが今更ながら遠い昔のことのように思い出します。

昨年の私の一大事と母の生活の変化はほぼ同時進行でした。一昨年暮れの母の入院、年明けて退院したのもつかの間、足の衰えから家での生活に不安を感じるようになり、サービス付き高齢者住宅に要介護2で入所。そのスタート時には、私も大阪に出かけ部屋を整えたりして、母の新たな生活がスムーズに行くよう働きました。が、その後は私の方に心配事項が発生してしばらく大阪行きは遠ざかざるを得なくなりました。

その間も、6時半からの電話タイムは習慣として、ほぼ毎日行っていて、施設生活のスタート時にかかわったこともあり、母の話すことや様子は手に取るようにわかりました。一昨年末、入院した母のために簡単携帯を購入したことが、今に至るまで功を奏しています。

ようやく一段落ついて、行くことができたのは昨年の11月、そして4月にも、次女夫婦を伴って結婚報告に行くことができました。

現在母は、今の環境に慣れて大過なく過ごせていますが、年々生活が縮小していくようなのが切ないことではあります。

0D821C11-95B2-4D2C-AC60-49AD75287185滞在は4泊5日、中3日間を母のところに訪ねて行きました。いつもは大阪単身滞在の兄がやっている、医院のお薬と食べ物の差し入れを引き受け、母宛の郵便物を届けて語らいの時を持ちました。郵便物の1つは母の甥からで、母の2番目の兄の遺作の絵画作品集です。絵を習ったことがないにもかかわらず、晩年認知症の妻の傍らで書き溜めた200枚にも上る絵。母と、伯父さんを偲びながら絵を楽しませてもらいました。

 

母のワンルームは、ベッドと車いすがある他は、大型収納とトイレと洗面があるのみ。そこへ、組み立ての収納台をニ〇リで買って毎回届けてます。今回3個目の木の台を組み立てました。ようやく、色々整理して使える部屋になりました。1つは机に、1つは飾り台に、今回のはベッド横のサイドテーブルとして。

 

滞在期間はあっという間に過ぎ、また毎日の電話交流の日々に戻りました。滞在中、初日はしっかり、あと2日はちょっと危ない感じの母でしたが、電話では母らしさのある律儀な応対に戻りホッとしています。母の活動の幅が狭まるに連れ、話の中身もワンパターン化してきましたが、まだ携帯電話の着信ボタンを押して話せることが大きな救い、私と母との大きな絆となっています。

 

次女の結婚式を終えて

次女の結婚式が滞りなく終了し安堵しています。

親として元気に晴れの日を過ごせたことが何よりの感謝です。両家は、親族がそれぞれ遠方であることもあり、今回の慶事により、久しぶりの再会ができました。

チャペルの挙式後、披露宴を親族でするという流れは長女の時と同じでしたが、8年の経過もあり、また違う感慨がありました。

前日は小雨降る寒い日でしたが、この日は朝から日差しが出て、14階の窓を背にしたチャペルは祝福の光が眩しく差し込んでいました。

そしてこのチャペルでの挙式は、とても印象深いものでした。牧師さんはやや高齢の外人の方ですが日本語も話せて、温かみのあるのが伝わりました。リングガールとなった孫達にもとても優しく話しかけてくれました。

コリントの13章、愛は忍耐強い。愛は情け深い。…が朗読され、神の前に誓い、認められる場面を親族一同が見守る儀式。海外では、この儀式が入籍よりも重要とされていることがよく感じられるものでした。

披露宴では、新郎新婦を中心にゲストが楽しい時間を過ごせるように、様々な演出がありました。それで私は留袖で軽快に動けない中、スマホシャッター押しまくりとなり、少々怪しかったかなと、一段落ついた今は思っています。

写真画像を改めて振り返ってみると、ホテルスタッフが沢山関わってくださったことを改めて思います。黒子となって、あちこちでサポートしてくださいました。私の着付け担当の方も、その時だけでなく写真撮影時などに着崩れがないかチェックしてくれ助かりました。

披露宴終盤、新婦から両親への手紙朗読は、娘の心からの言葉であることを感じ、とても嬉しく受け止めました。さらっと読んでくれたので助かりました。

記念品の、同じ木で作られた3つの時計、司会の方の「新たな1つの家族がここに誕生しました」の言葉は、心に響きました。

また、一番最後のサプライズ、新郎から新婦への花束贈呈は、女性としては最も嬉しいものではないでしょうか?

新郎の温かい眼差しのもと、幸せな家庭を築いてくれることでしょう。

嬉しい1日の偽らざる感想です。

 

 

 

 

今年の文化の日

11月3日、今年は孫二人がダブル七五三の年で、半年前からこの日の予定が知らされていました。

晴れ姿を見てほしいから、もうわかってる予定があったら外すので言ってねと言われたときは、半年先の予定はさすがにないし、そもそも元気でいるのか未知数なんて思ったりしていました。

七五三を行う神社は、今回で4回目。初孫Yちゃんのお宮参り、3歳七五三、その妹Nちゃんのお宮参り、で今回のダブル七五三です。今回はダブルということもあり、娘(長女)もはりきって、私も着物をと頑張りました。

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10時過ぎに到着した時には、みんな着物姿に変身し、華やかな雰囲気に、一気にテンションが上がりました。Yちゃんが、開口一番お母さんもSちゃんも着たんだよねと。そうなんです。Sちゃんというのは、次女のこと。だから、私にとっては自分の娘たちのダブル七五三がまた時を超えて、再来した気分にもなりました。

夜には、毎晩電話している89歳の大阪の母にさっそく報告しました。母が私の娘たちのために用意してくれた着物が何回も役に立ち、今回は孫のダブル七五三にも使ってもらえたというありがたさ。

Yちゃんの3歳の時にそっくりのNちゃん、お姉ちゃんになったYちゃんを見ながら、節目、節目の成長をうれしく思いました。お姫さん変身が好きな孫たちは、少々の窮屈な格好は平気で、この後七五三の日をまだまだ満喫したことでしょう。

私たち夫婦は、実はこのあと毎年の文化の日に行われる横浜でのイベントに参加する予定でしたが、少々疲れたこともあり、それはキャンセルしてゆっくりした一日を過ごしました。

季節は秋、ちょうどざる菊が満開となっていました。

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