カテゴリー別アーカイブ: 平塚の文化資源ウオーキング

ガイドと巡る文化資源15-岡崎地区

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先週の日曜日、今まで行く機会を逸していた岡崎地区のガイドウオーキングに参加しました。

北に位置するこの地区の公民館などは、行ったこともあり全く知らないところではないと思っていましたが、説明を受けて実際に歩いてみると、知らない発見が山ほどあり、何よりも印象がガラッと変わって好感度がアップしました。

この日は、秋晴れの晴天で、その2,3日前に寒波で富士山が真っ白に雪化粧して美しい姿を見せていました。

今回、ガイドをしてくださったのは、この地区に在住の女性の方です。高倉健と同じ年齢と聞くまでは、10歳くらい下の年齢を思うくらいの、明晰で心身ともにタフな方でした。初めの説明で、この地区には山が4つあり、順番に巡って行くので、上れば下るという地形であるということでした。

image1番目に訪れた山は、岡崎公民館。ここの建物の前には、この地区の主人公ともいえる岡崎四郎義実の像がありました。源頼朝の旗揚げの頃の功臣ということで、相模国の豪族、三浦善継の四男でこの岡崎の地に住んだことから岡崎の名を名乗っているということです。

 

 

 

imageこの岡崎にはこの平安末期から室町・戦国時代初期にかけて岡崎城なるものがあり、その址が残されています。先の公民館横から階段を登ったところに岡崎神社があり、由緒ある美しい寺のような神殿がありました。この岡崎神社は、先の義実の頃の岡崎城の中心であった場所ということです。

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image次の山の岡崎小学校は、一気に時代をさかのぼり、縄文時代から古墳時代にかけての遺跡のある場所です。岡崎小学校が建て替えられるときに大規模な発掘調査が行われ、今回ガイドをしてくださった方もそれに参加したと話されていました。五六千年前、この辺りは近くまで海の迫る場所であったということです。市の博物館前の地面にある敷石はここから発掘されたものとか、キツネノカミソリという植物の球根が大量に発掘されたの珍しい発見ということです。上の入り遺跡というそうです。

次の場所に移動は、予告通り下ってまた上るということが何回か繰り返されましたが、海抜28mあるという山の手からの眺めはとても美しく、アップダウンの地形も横浜にでも来た気分で、今まで田舎と思っていましたが一気に山の手の住宅街に塗り替えられました。

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image広い県道をさらに北に上って行った辺り、住宅が途切れ開発中の山林にさしかかったところの奥に、義実の墓らしきものがあり、土手の向こうは隣の市という際を歩きました。途中、室町時代末の岡崎城の空濠跡などを見ながら、無量寺に行きました。ここの敷地はわざわざ切り取った感じに、隣の市の区域になっています。室町末期の岡崎城の本丸があった場所ということです。

お城と言えば高い天守閣を思い浮かべますが、岡崎城はそれ以前のお城で、地形の高低差などを利用して、敵が侵入しにくい立地に建てらたということです。そのため、当時の城の主の三浦義同から、北条早雲が岡崎城を落とすのに17年かかったということです。

解散地の紫雲寺に向かう途中、大御住グランドを眺める辺り、メタセコイアの紅葉が見られる風景、青空に映えて異国情緒さえ感じられました。

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1週間前のことですが、まだ感動は冷めていません。

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中原街道ウオーク(ガイドと巡る文化資源14)

前回から1年ぶりで、また文化資源ウオークに参加しました。

今回のコースは、平塚の中原街道を歩くシリーズの3回目です。昨年1回目を参加し、続きも歩こうと決めていましたが、2回目はパスし、今回の3回目への参加になりました。今回は、中原御殿バス停に集合し、大磯の化粧坂一里塚の終点までです。

旧道にあるバス停は狭い場所なので、近くのお寺の広い駐車場に集まり2班に分かれ出発しました。

さて、中原街道の復習ですが、この道の全体は、江戸時代、江戸虎ノ門から相州中原(平塚市)を結ぶほぼ直線的な60Kmに及ぶ道で、別名御酢街道とも呼ばれる道です。

途中、川崎市の中原区などは区に名前を残したり、碑などもよく見かけるけれど、肝心の発祥地の平塚での扱いは小さいと、ガイドの方が嘆かれていました。今回のウオーキングのコースはまさにその起点ともいうべき場所で、近隣に住む者なのにあまりにも知らなかったので勉強になりました。

 

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出発してすぐの道の角に、高札場の道標と案内板がありました。そこから中原小学校へ入る道路があります。

その高札場向かいに御酢街道の名前のルーツにかかわる御酢のお宅があると伺いました。家康様が中原御殿にお住いの頃に、御酢を作っていてそれがとても気に入られ、それを江戸まで中原街道を使って運ばれ御酢街道と呼ばれるようになったということです。

 

 

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道の突き当りには中原小学校があり、ちょうどその場所に、道に面して石に刻まれた大きな碑があります。今まで足をとめたことはありませんでしたが、それによると現在の中原小学校の場所全体が、当時の中原御殿があった場所であるということです。

家康様が江戸から日帰りのできる場所に立てた御殿で、周囲に堀をめぐらし周りは小さな城下町のようになっていたということです。

 

 

 

imageそのころの、様子が描かれた絵が小学校横の消防団のシャッターに大きく書かれていました。一面林の中に、御殿とお宮があり、遠くには富士山が書かれていました。

この御殿を造営した方の子孫の方のお宅が、その近くに洋風にファンタスティックに建っていて、そのコントラストも楽しかったです。

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imageここから、化粧坂一里塚まではその後に付け加えられたもののようですが、ここからは直線的にではなくジグザグと進んで行き、最初の立ち寄り場所は大久保公園。この公園は、以前のウオーキングでも平塚で最初にできた公園で当時はこの辺りは新興住宅街だったと聞いたことがあります。横にある諏訪部神社は、水天宮を祭っていました。

私の記憶では、この大久保公園の象の滑り台は、以前空から街を眺める番組で雲じいが見つけ紹介してくれた滑り台です。

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ヘルシーロードを横切り、農業高校を過ぎ、八雲神社、商業高校を見ながら進み行くと、商業高校入り口横に成器塾跡の碑がありました。宮崎拡堂が1850年頃に開いた漢学の塾で、この辺りでは最も早くできた中等教育施設だそうです。ここ平塚は当時は教育先進地域だったということです。

 

 

次に足を止めたのは、大きなタブの木。樹齢200年以上で保全樹木になっている木で、「五霊社跡」の碑がその前にありました。また、道、建物をへだてて西側にもう1本、タブの木があり、そちらもおまけ的に見ました。行き止まりの奥に、向こう向きに鳥居があり、手前にその木がありました。対であることから入り口にあった2本の木だったのではと想像が膨らむようでした。

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imageその後、国道1号合流地点で大磯と平塚を区切る標識のある辺りで、京方見附跡を遠目に眺め、大磯方面に向いました。その橋を徒歩で渡るのは初めてで、前方には広重の絵にある高麗山が絵と同じかたちで丸く大きく見えました。

対岸に渡ったところで、左前方にある善福寺の説明を受けましたが、このお寺の中に横穴の遺跡があるということだけが印象に残りました。

 

 

化粧坂へと進む途中に、高来神社に立ち寄り説明を聞きました。歴史で神仏混交という語句は知っていましたが、ここはまさにその聖地だったようで、鳥居をくぐった向こうには寺社のようなものがありました。今は多分その中に社殿のようなものがあるのでしょうか。昔は高麗寺だったようで、明治初年に高麗神社に、その後明治30年に高来神社となったようです。読み方は(たかくじんじゃ)です。

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化粧坂一里塚手前に、虎女の化粧井戸跡がありました。曽我物語に出てくる、その方がここで水をくみ化粧に使ったので化粧坂という地名ができたそうですが、今そこに井戸はありませんでした。

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image一里塚の終点地点には、案内板が建てられていました。この一里塚は中原街道の一里塚であると同時に、東海道の一里塚でもあるそうで、ここを分岐点として中原街道が始まっているということです。

 

 

今回のウオーキングで、私の中で断片的にあった情報がつながったことが多くありました。説明してくださるガイドの方は、自分の足で歩いてまとめた資料なども駆使して説明してくださり、熱意が伝わりました。大感謝です。

 

 

 

 

11月の風景ー後半(ガイドと巡る平塚の文化資源13)

先月久しぶりに参加した市のガイドウオーキングに、今月も参加しました。

今回のコースは3年前に歩いたことのある城島地区です。コースなど少しは変化があるかもしれないと期待しての参加でしたがパンフレットを確認したら、全く同じコースで、立ち寄る場所も同じでした。

10月桜
10月桜

違うのは、3年前は春であったのに対し今回は秋であることぐらいです。ガイドボランティアの人が、「このコースは毎回天気が悪かったけど、今回は良い天気に恵まれました」と嬉しそうに話されましたが、3年前の春も今回と同じくらい良い天気でした。

下島、大島、小鍋島、城所の4つ地名を歩きましたが、これらはそれぞれ小さな村で明治22年に合併して城島村となったようです。その後、城島村は昭和33年に平塚市に編入されたということです。

3年前の記事では主に後半部分(←リンク)を書きましたので、今回は前半を中心に心に残ったことを記したいと思います。

今回あちこちで見かけた庚申塔、この庚申塔とは一体何ぞや? 今回は説明された方の理解が明快だったからでしょうか、とてもよく頭に入りましたので書き残そうと思います。

昔(江戸?)悪いことが起きるのは、人の体の中に悪い虫が住んでいてその虫が庚申の時刻(真夜中のようです)に体を抜けだし、魔王?のところへ行ってその人の悪い行状を報告しその悪い行いの報いとして悪いことが起きると信じられていたそうです。そこで、村の人たちは、90日に1回?かある庚申の日に皆で集まり虫が出て行かないよう朝まで寝ないで番をするというイベントを行ったそうです。そして、それを3回行うと、庚申塔を1つ立てたということのようです。・・・・・・詳細あやふやですが、何だか昔の人の思いに触れることができたような気がしました。

そのイベントは、わけはともかく実際は近隣の皆で朝まで集い合うレクレーション、村人の楽しみになっていたようで、このウオーキングの地元の参加者によると、つい最近までその風習は残っていましたよという証言も聞かれ、歴史のある地域を感じました。

庚申塔には下の方に猿が模られていて、これが2匹のと3匹のがあり、2匹の方が時代が古いものと聞きました。

今回、あちこちで六地蔵を見ました。

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image1、集合地点の下島八幡神社・・・徳川家康が鷹狩で立ち寄った時に、鷹が松の木にとまって降りてこなくなったが祈祷したら戻ってきたので、家康より褒美をもらったことが記されている。

    image 庚申塔

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2、霊山寺・・・このお寺は、2カ所印象深いところがあります。1つは境内にある淡島堂。婦人縁の神社で安産、裁縫の上達などのご利益があり、お百度石がある。3月13日の縁日は、女の人は家のことから解放されて1日ここで楽しむそうです。もう1つは、この寺の後方の木々の中に、散らばって立てられた六地蔵があること。

3、正福寺・・・市指定文化財の木造の「薬師如来立像」と「十二神将立像」がある。ここにも、庚申塔があり、右のは二猿。image

4、十輪寺・・・風よけの生垣が印象的。その横には平塚市最大の墓がる。

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この地域の名前に島の字が多いのは、昔この辺り一帯が湿地帯だったからだそうです。昔の様子を示す手書きの図をみせてくれました。この図で緑のシールが貼られているところは渡しがあったところです。

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5、興淵寺・・・「古河の渡しと白蛇の伝説」のお話を聞きました。

 

 

 

 

 

 

 

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地下道美術館

小田原厚木道路を超えた小高いところは、昔城所城があったところです。 1964年開通の新幹線の高架をつくるために山の一部が削り取られたそうです。

この城所にある、浄心寺と貴船神社を見て解散しました。

久しぶりのガイドと巡る文化資源ウオーク(12)

2年ぶりに近場のガイドと巡る文化資源ウオーキングに参加しました。

このガイドウオーキングは市内の文化資源に詳しい人たちが集まってコースを分担して月1回ボランティアで開催しているもので、住んでいる地域の昔の様子が忍ばれ、いつ参加しても満足の得られるウオーキングです。

以前18コースぐらいあると聞いたことがありますが、色々工夫を凝らして変化をつけられているようで、今回のコースの初めの方は以前参加したときに立ち寄ったことのある場所でしたが、コース全体としては「田村から中原街道を歩く」ということなので、興味が湧き参加することにしました。

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脚部が特徴の鳥居

スタートは田村の八坂神社からです。

中原街道と言うのは、江戸虎ノ門から相州中原(平塚市)を結ぶ、約60kmの道ということで、終点は後には中原御殿から大磯の化粧坂一里塚までになったということです。それで、市内の中原街道として今回を第1回目として3回シリーズで、田村から、昔の四之宮村、真土村、中原上宿、中原下宿、南原村などを歩くそうです。また、この中原街道というのは、江戸以前は奥州道ともいわれているそうです。

八坂神社の説明は、前回と重なるところも多かったですが、市の指定文化財の「田村ばやし」をボイスレコーダーで聞かせてもらいました。笛の音色が耳に楽しい響きでした。

 

 

八坂神社を出発して、まず立ち寄ったのは田村の渡しです。この渡しは大山詣が盛んになった江戸中期にできたとのこと。それまでは、今回のウオーキングでもう1つ立ち寄った四之宮(神戸/ごうど)の渡しが使われていたそうです。ちなみに、今この田村の場所には神川橋がかかっていて500mの長さですが、明治のころは川幅が939mと広かったということです。

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image田村の渡しの近くの一帯は、鎌倉時代に力のあった三浦義村という人の館跡の碑があります。前回の時もその碑は見ましたが、今回、新たに興味深かったことがいくつかありました。

まず1つは、鎌倉時代の将軍が、実朝死後、何代も公家の出身の人で続いていたということ。4代目の藤原頼経を三浦氏が擁立していたという話。もう1つは、右の画像、その当時川だったところの歩道に川の模様のタイルが施されていました。これがずーと続いてあるんです。平塚市もなかなかロマンチックな嗜好です。

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image川のタイルの歩道をしばらく歩いたあと、常勝寺、妙楽禅寺に立ち寄りました。常勝寺では和尚さんじきじきの講和がありました。

妙楽禅寺は、駒返橋のところにあるお寺で4年前にも立ち寄った場所です。正面の楼門の中にある「木造閻魔王坐像」が最近市の指定文化財になったという変化が報告されました。

 

 

 

 

 

image田村の一里塚は、狭くて車の通行の多い道端に立っていました。危ないので、写真を撮った後反対側で説明を聞きました。

そこから、129号まで斜めに続く細い道が、中原街道で、129号のさきは道が無くなっています。その道の途中の用水路に架かる橋が、鹿見堂橋で、その付近に徳川家康が昼食の箸を地面に立てたとされる場所があると説明がありました。そこは、その後森になり箸立ての森と呼ばれたそうです。現在は、そのあとはどこにも見られませんが。

 

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中原街道の続きは、第2回目へ引き継がれ、今回はこのあと四之宮(神戸/ごうぞ)の渡しと終着点の前鳥神社へと向かいました。

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前鳥神社の鳥居ー八坂神社の脚部と同じ
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ご神木のクスノキ

前鳥神社(さきとりじんじゃ)は、1600年の歴史のある平塚で一番古い神社。左喜登利神社とも。相模十三社の1つであり、六所神社に入る由緒ある神社ですが、中に入るのは今回が初めてでした。トトロや、千と千尋の神隠しのメロディーが流れていて、クスノキもあり、雰囲気のいい神社でした。

ここで解散しましたが、先週とは、打って変わって秋晴れの中、久しぶりに気持ちの良いウオーキングでした。

ガイドと巡る文化資源11

今年度になって2回目の参加です。今回でトータル11コース目になります。以前、全18コースと聞いていましたが、その後新コースが増えて、今は22コースだそうですので、まだまだ楽しめそうです。

今回は、一昨年に行った、土屋の西部に隣接するコースで、土屋東部コースです。前日は、小嵐の日でしたが、この日は朝から次第に晴れ、気温もぐんぐん上がりました。あとで聞いたところによると、11月では近年最高の気温だったようです。

参加者は、いつもは60人以上いるのですが、今回は申し込みが29人と少なかった上に、前日の嵐の影響か、19人しか集まらず、1班7人の小グループ3つで回りました。申し込みがもともと少なかったのは、集合場所が当市の外れ、市境に近いところで、山の中を歩くことが敬遠されたのかもしれません。

しかし、今回もその中身は、なかなか楽しいものでした。鎌倉時代のものから現代まで、時代の痕跡をあちこち辿ることができました。

地名にある土屋氏ゆかりの史跡もたくさんあり、土地を仲良く分けた由来の名前、惣領分・庶子分・寺分、5分一などが残っています。

 トランペットフラワーが咲く道を行く

土屋は丘陵に囲まれた谷戸にいくつかの集落があると言う場所。この場所は鉄砲馬場と呼ばれた300mくらい水平に伸びる道。

 大乗院・・・第2次世界大戦末期には、ここを狙ってこの地も襲撃されたそうです。近衛兵が寝泊まりしていたということです。また、明治の学制の時に、温知館という土屋小学校の前身の学校があったということです。

土屋一族の墓の近くに、浩宮様が1979年に立ち寄ったという碑がある。その横には記念樹が植えられていて大きく茂っていた。

妙円寺・・武田氏家臣の子孫の水島氏ゆかりのお寺。

                                         釘を使わずに建てた弁天堂↓ 

                   

 ←洞窟のある岩屋。

                   

                              

                                                        四十九院塔→

など、ちょっと珍しいものが沢山ありました。

近場なのに、内容豊かなウオーキングが楽しめ、今回も満足しました。

久しぶりの文化資源ウオーキング

地元の文化資源を巡るウオーキングに、久しぶりに参加しました。一昨年から昨年にかけて、9回位出かけましたが、昨年夏位からは滞っていました。もう行ったことのあるコースがあったりしたことがきっかけでもありますが、昨年から花菜ガーデンサポーターを始めたこともあり、ウオーキングへの意欲が薄れたからかもしれません。(私がというより夫の方が)

今回のコースは、金田地区で、私的に家的に、今ブームの地域です。私は、集まりへ出かけるとき、この地域を通って行くようになりましたし、何より花菜ガーデンがある地域です。花菜ガーデンの周りと言えば、少しの集落があるだけの場所と思っていましたが、小さくともそれなりの歴史のある、結集力のある地域であることがわかりました。

今回のコースの全行程は4.1kmとさほど多くはありませんが、このガイドウオーキングは、いつもスタートとゴールが離れているので、駅からバスに乗って参加する人には、差し支えなく考えられていますがが、そうでない場合は工夫を強いられます。今回も考えた末、花菜ガーデンに自転車を置いて、スタート地点(東橋付近)まで歩く、そしてゴール解散の飯島からまた花菜ガーデンまで歩くということにしました。結果、ウオーキング距離はほぼ倍になりました。

今回歩いたところは、弥生、縄文の頃は相模湾の海だった場所ということで、その頃の発掘物はないようですが、それ以降の、神社、お寺、仏像、川、土手、橋などの昔を語るものものを、今回もたずね歩き、昔をしのぶことができました。

スタートの日枝神社。3班43名の参加でした。横に疱瘡を治す守り神も。

    

その隣にある寺、吉祥院。扉の紋が左右で違う。左が天台宗、右が曹洞宗という説明。衆寮として使われていたそうです。

  

しばらく行くと、小田原北条の家臣、布施氏のお屋敷跡がありました。今は前前前の市長の実家。          

古川という小さな川、これは昔の金目川の名残の川。天井川で暴れ川の金目川の流れを変えて今日に至っているとの説明。

 

蓮昭寺

     

            布施氏のお墓。1つの石で作られている。

小さな集落に立つ、八坂神社。江戸時代15軒の集落にあった神社としては立派。

       

 あちこち、植物はきれいでした。

  立ち葵のカラフルな群生。

 ブラックべリー            アジサイ

     

最後に記しておきたいこととして、昨日はかなりの猛暑でしたが、今日はかなり涼しくてラッキーであったことと、もう1つは、偶然にも知人のご夫婦と出会い、同じグループでウオーキングできました。久しぶりのガイドウオークは、なかなか新鮮でした。

ガイドと巡る近場の文化資源9

今回の近場の文化資源巡りは、雨で延期なったものの、翌週は何とか梅雨の晴れ間で実施されました。
ちなみに朝のNHKの左上にある予報で、横浜の降水確率50%以上になると、中止になります。
 
今回巡った場所は、市の西南、金目川の西側の地域です。
旭村と呼ばれたところで、56年前市と合併し、今は、県営団地や市営団地が広がっています。
 
        七夕飾りのゆれる公民館から出発
 
「曽我物語」で有名なヒロイン虎女の生誕の地である山下や、
また、旭西部は、大磯丘陵の東端にあたり、貝塚や横穴墓群などがあります。
 
「曽我物語」というのは、曽我十郎・五郎兄弟の仇討の物語で、虎女は虎御前とよばれた十郎の恋人です。
結局、兄は討たれ、弟は捕われたのち処刑されるのですが、その悲報を受け、虎女は仏門に入って閑居したとされる場所などがありました。
 
         
      虎女の文塚跡                            虎女の住居跡                     
 
◎万田貝殻坂遺跡
明治期に、崖面に貝殻が露出して”貝殻坂”と呼ばれるようになり、大正期に道路工事中に貝塚が発見された。
層位学による土器の編年研究を全国で最も早く実施した遺跡として知られているそうです。
 
              
 
                                    昔は海だったところ
 
 
◎宝珠院
根坂間丘陵の麓にある天台宗のお寺。
 
  大日堂  
 
 
        五輪塔  
 
 
 
◎根坂間横穴墓群
28基の横穴墓が発見されている。
 
        墓の中の配置図
 
                             
                 この道沿いに隠れている
 
         ☆   ☆   ☆
 
夏の暑さの中、道々には、花々が鮮やかに咲き誇っていました。
そのほとんどの名前を知りませんでしたが、心惹かれた花々です。
 
        
 
 
             
 
 
 
 
 
 

近場の文化資源巡り8

近場のガイドウオーキング、3ヵ月ぶりに行ってきました。
毎月あるイベントですが、2月は雨で中止になり、3月は集合地点が行きにくい場所ということでパスしました。
 
今回の場所は、自宅から北に自転車で10分ほど走った場所が集合地点で、そこから西方向に6km位の行程です。題して、市民ふれあいツアー「城島の史跡・文化」
 
 
      
     集合の下島八幡神社              十輪寺・・・正面の槙の木が見事
 
 
             
                 長閑な立地の興渕寺・・・昔は沼地だったという
     
 
  「この辺りは、5千年前は海だったのです。それが、徐々に土が堆積して、2千年前ぐらいには現在のようになりました」との説明。いつものことですが、ガイド方々の古い時代へのロマンを込めた思いが徐々に伝わってきます。
 
 「それで、大島、小鍋島、下島などの地名があります。もっと向こうの城所というところは、お城があったところです」そうだったのか!と引き込まれ、そして、一面田んぼが続く、長閑なこの場所もさかのぼれば、色んな時があったんだと昔の世界へと誘われます。
 
2つの神社と、5つのお寺を回りましたが、それぞれに物語が隠されています。仏像、庚申塔、六地蔵などは、定番のようにあり、深い意味はわからないまま、今では馴染みのものになりました。
 
 
     
  点在する六地蔵                  船の上に坐する地蔵
 
 
 
       
                               お馴染み、庚申塔
 
 
           木造薬師如来立像
 
 
 今回歩いたところは、たまたま先週、芝桜を求めて彷徨ったところと、一部同じでしたので、連続してこの辺りの地理がよくわかるようになりました。
前は、曇っていた空も、今回は素晴らしく良い日和でしたので、西には富士山、青空に草木が生き生きと映えていました。
 
 
 
      
     ハナミズキ?
 
 
         八重桜咲く小学校
 
 
今回の一番の収穫は、昔お城のあった場所。
隣の市に、入り込むようになっているわが市の北端で、こんなところにこんな由緒ある場所があるとは・・・といつものように感心し、そこで解散となりました。
 
 
 
  この地下道をくぐると城所  
 
 
       ← お寺の入り口によく見かける結界
 
 
 
   貴船神社へ
 
 
          北条政子ゆかり”泣き荒神”
 
 
 

ガイドと巡る平塚の文化資源7

今回は、「北金目・真田地区の史跡・文化」を巡りました。
冬型のお天気で、寒いけれど真っ青な晴天の下、8カ所の文化資源を訪ねました。
 
①御所様堤と「河身改修耕地竣工記念碑」
 
   この陸橋の向こうの方へ570m、徳川家康公の命でできた大堤があります。
   右は、大正10年に建てられた碑
 
   
 
②双体道祖神
 
  烏帽子を被った左右同形の神像がみられるものは珍しいとのこと
 
  
    
   
③真田神社
 
  旧牛頭天王社 → 八坂神社 → 明治9年に今の名称に
  この鳥居は、瀬戸内海沿岸の花崗岩を大阪の石工が製作、船で須賀港へ運び、11か村協力してこの地に
  運搬されました。
 
  
   
   
④天徳寺・与一堂
 
  曹洞宗のお寺。源頼朝の石橋山合戦で戦死した真田与一義忠を祀った与一堂には、
  貴重な遺跡がたくさんあります。
 
 
    
  戦災、戦時の供出を免れた、梵鐘(1629年)   江戸末期の子安観音
 
  
 
 
⑤塚越古墳
 
  標高36m。市内最古の「前方後方墳」。
  発掘途中で、特別に見学させてもらいました。後に公園として整備するそうです。
  同時に、「方形周溝墓」や竪穴住居跡も見られました。
 
  
 
 
  
 
 
⑥不動院
 
 本堂は銅葺き。ちょっと変わった仕様。高野山の御影堂を模している
 
  真言宗の寺
 
 
⑦北金目神社
 
  この覆殿の中に、本殿があり、奈良の春日大社に代表される春日作り。
 
   覆殿の欄間も見事
   
   
⑧金目親水公園
 
  通称「ホタルの里」。ホタルの一生を丁寧に説明して下さいました。
  このせせらぎの源流は、泉ということです。
 
  
  
 
今回は、いつもよりも増して、貴重なものを見られたような印象を受けました。
 
 

ガイドと巡る平塚の文化資源

7月に初めてこのイベントに参加して以来、毎月出かけるようになり、今回で6回目になりました。
前回、11月は、家の近場でしたがそれなりに再発見や、サプライズもあったものの、なんとなく、アップしないままま日が過ぎてしまいました。
 
        
     真土神社(裏手)       中原街道(お酢街道)の碑
 
 このときの、一番の見所は、真土大塚山古墳でした。昭和10年に発掘されたそうですが、ここから出土された「三角縁四神二獣鏡」というのが、時代と地位を示す貴重なもので、この辺りに当時の権力者が住んでいたことを伺わせるものらしいです。
 
今回は、前回が小雨交じりの寒い日だったのと打って変って、冬型の良い天気で、真っ青な空のもとで、河口地域の史跡を巡ることができました。
 
今回の地域では、庚申信仰のあとがいくつかあり、お稲荷さんを祭る神社や家々がたくさんみられました。平塚の東南に位置する須賀港と相模川河口は、初めて見ました。川が海と合流するところは広がりを感じます。西の方には遠く富士山も真っ白な雪をいただいて見えました。
 
 
     
        長楽寺の庚申塔              青面金剛で2猿と解説
 
 
 
                
               海を見つめる阿弥陀如来 (高さ4m)    
 
          
         
 
      
    湘南潮来                    平塚漁港から相模川河口を望む 
 
   
   相模川河口                     平塚漁港から遠くに富士山
     
 
         港稲荷神社
 
毎回思うことは、知っていると思う場所でも、実際に歩いてないところは、実は知らない場所ということ、
またどの場所にも昔があり、知らない時代、自分の生まれる前に多くの人がいろんな思いで同じ場所に生きていた、ということに気づかされるということです。
 
お地蔵様、碑など、お寺の仏像、お墓、神社などが、今の暮らしの中に紛れて、静かに昔のことを物語っている・・・そのことを丁寧にガイドしてくれます。昔への、昔の人々への情熱を持って。こうして、みんなで見て回っている時には、忘れられた時代の人々も少しの間、息を吹き返しているのではないでしょうか。