月別アーカイブ: 2011年3月

30年の歳月

いよいよ、今日で今年度が終わります。関東地方は晴れの日が続き、花粉の飛散も毎日、”非常に多い”が続いています。

今週は月末までにしておきたいことを書き出して、毎日の予定を立てていましたので、朝の家事が終えると、駅方向にある10時開店の美容院へ向かいました。 郵便物1つと配布物1軒分を持参して。一番近いポストに郵便物を投函。まっしぐらに、美容院へ向かいましたが、到着は10時5分になってしまいました。以前、平日でも、開店少し遅れると1時間以上待たされたことがあったので、開店前を意識したのですが(この美容院は予約制をやっていない) 幸いにも、今日は閑古鳥で、私は2人目のお客でした。前もって洗髪をしていくと、洗髪は省略してくれるので、さっさとカットにとりかかってくれました。終わって、時計を見るとまだまだ早い時間。それで、急遽、2月に行く予定で先延ばしにしていた、医院の健診に行くことにしました。調べたところ、今日は午前中の診療ということなので。

この美容院から、医院までの最短コースの道が、裏手にあることをふと思い出し、そちらから行くことにしました。最近はあまり通らない道ですが、通れば懐かしい道です。

ふりかえれば30年前、結婚してこの市に住むようになった頃に住んでいたマンションの生活圏だからです。この地域には7年間住んでいましたので、このエリアに入ると幼児を持つ母として過ごした日々が甦り懐かしい思いにさせられます。長女と共に、公園デビューした公園、当時は数人しか遊ぶ人はいなかったけど、今日は随分沢山の親子連れが賑わっていました。

30年前にはマンションはあまりなく、JRから自宅マンションが見えたものでしたが、今では駅前は高層マンションだらけ。9階建のマンションは低い建物と化しています。西向きのベランダから遮るものなく見えた富士山も、今はまったく見えないことでしょう。

駅近のこのマンションは、海岸から2kmのところなので、あの頃は海側へ出かけることも今よりありました。とても、便利な場所ではありましたが、若干狭い間取りであったことから現在の住居に転居、その後は、転勤で6年間京都に住んでまた戻るなど、移動の多い展開となりました。そして、京都から戻って再びこの市に住むようになってからも、早10年が過ぎ、初めて住んでからはちょうど30年たったことをあらためて思い、時の流れを感じるときの焦燥感に一瞬とらわれました。

目的の医院は、昔はありませんでしたが、10年前には近くのビルの2Fで開業しており、最近この場所に移転されたものです。いつもは、混んでいる医院ですが、計画停電などのスケジュールの不安定さからか、ここも1人待ちでさっと診察。滞在時間20分位で出られました。

それで、銀行通帳の記帳や買い物をすませてもまだ12時前で、最後配布物を届ける家に回って帰るために大きな公園を横切って自転車を走らせていましたら、なんとその人とすれ違いました。声をかけたら、気づいてくれて手渡しができ、方向転換して一路帰路に就きました。というのも、晴れていたのに急に、ポツポツ来だしたからです。この時期に雨には濡れたくないと一目散に戻りました。帰宅時間は、12時9分。

家にいたらあっという間に過ぎる時間なのに、随分色々、事が捗り嬉しく思いましたが、昼食を終えると疲れがどっと出て来ました。

ずっと、走り続けることなんて、できませんね。

いいえ、だれでも。

今週になってからは、震災から10日以上過ぎたこともあり、徐々に色んな事が、元に戻りつつあり、復興支援の動きもあちこちで見られるようになって来ました。

一時、長蛇の列だったガソリンも、供給量が増えてきましたし、スーパーは、相変わらず品薄ではありますが、開店と同時に入ると、一通りは揃っているので、少ないながらも出回っていることが感じられ安心できるようになってきました。

原発は、まだ目が離せず、あちこちで説明されても、まだ正体のわからない不安が残っていますが、希望的な思いの中で言えば、この恐ろしいものは、とにかく水があればかなり防げるという理解です。東京の消防のハイパーレスキュー隊の働きが、かなり私たちを救ってくれたと感謝したいです。水は、冷却してくれるし中性子も遮蔽してくれる。

関東地方の計画停電は、寒さが一段落したら、一時休止されるが、夏場にはまた行われる見通しらしい。暑さ、寒さから身を守るために、電気の恩恵をたっぷり受けてましたが、夜の明かりとしての電気の恩恵はそれこそ、空気のように当たり前に思って暮らしていたことに今さらながら気づきました。今日も、原始の夜から、文明の光を感じる1時間半を過ごしました。

   

計画停電が、1日の中に組み込まれることで、それによって色々な活動が決められて行きます。ついついだらだらと・・・にストップがかかることはありがたいことと感じています。

ツイッターでの自分のつぶやきは、最近減ってしまいました。というのも、フォローしている人のリツイートがたくさん来て、それを見ているうちに時間が過ぎてしまうからかもしれません。

そんな、あるとき、リツイートで見つけた言葉

『雨でも外に出ず、風でも外に出ず、雪でも夏の暑さでも外に出ず、丈夫な心を持ち、東の電力会社が下手打てば、寝る間も惜しんで叩き、西に品物あらば我先にと買い溜めし、南で募金する人あらば売名だと妬み、北で放射線が漏れたと聞けば産地の食品を敬遠す。そういう人には私はなりたくない』

震災以来、テレビで繰り返し流れる、公共広告機構のCMで、一番心に残るのは、金子みすずの「こだまでしょうか」です。

ツイッターの詩に出てくる”そういう人”に私もなりたくないけど、実際はこういう人が多いから、なりたくないという気持ちが生まれ共感を呼ぶのでしょう。私もそういう人になりたくないけど、一部私もそういう人であるから、そういう人にならないようにと祈りたいと思います。

「こだまでしょうか」では、人というのは、状況によって変わることを感じさせられます。やさしくいえば、やさしく答える。そして、そのことは、だれでも。

反対の状況を作らないように日々を送りたい。

地震の日のこと

その日は、午前中は外出していましたが、午後1時には家に戻り、少し遅いお昼を済ませ食後のくつろぎも終え、食器を洗っていましたら、パソコンをしている夫が、「あっ、揺れている」と言って、私も少し揺れているのに気付きました。

いつもの、軽い地震と思っていたら、だんだん大きな揺れになり、パソコンとテレビが突然切れました。中越地震の経験のある夫は、おもむろに立ち上がり、柱のとこへ。私は、迷いましたが、やはり夫と同じ所へ移動しました。その直後、かなり大きな揺れを感じました。

阪神大震災の時、京都市右京区にいて体験した直下型とは、ぜんぜん違う、実に不気味で大きな揺れ。静かに家を倒すのでは?という恐怖感が一瞬よぎりましたが、それ以上にはならず、一旦収まりましたが、短い間隔で、余震が2,3回はその後もありました。

早い時期に停電したので、テレビからの情報は遮断され、私は携帯ヤフーを、夫はラジオをつけたので、東北の方の大きな地震で、ほどなく津波の警報が出ているのを知りました。その警報が、東北の方では10mというのを聞いて度肝をぬかれましたが、家の近場でも広報車が走り、3mの警報が出ていることを知りました。海辺の保育園で勤務している長女のことがとても心配になりました。多分避難しているだろうと思いましたが。

その後は、ラジオと広報車の声に耳を傾ける時間がしばらく続き、停電が復旧してくれることを期待しましたが、日没が近づいたので、明るい間に必要なものをそろえるべく行動し始めました。

まず、揃えたのが懐中電灯。3台、用意できました。古い非常時持ち出し袋を持って来て、中を点検。そこのラジオと懐中電灯は使い物になりませんでしたが、非常用ろうそくを見つけ、これがあとで活躍しました。

その他には、カセットコンロとボンベ。昼の番組で、カセットコンロの事故の例を聞いたばかりなので、あまり使いたくはなかったのですが、家は2年前にオール電化にしたので、やはり使うしかありません。慎重にボンベをセットして、着くか確認しました。

それと、もう1つ、物入れをあさって見つけたのが、アナログの電話機。停電と同時に、コンセントにつないだ今の電話機は、全く使えない状態でしたが、昔の電話のジャックをつなぐだけの電話機なら仕えるだろうとの思いがあったので、探し出しました。やはり、これは使えました。あとで、大阪の実家と、停電していない長女宅に電話出来ました。

そして、とうとう日没です。まず、ろうそくに火を付けて、食卓に真ん中に置くと、暗いながら動ける明りが確保できました。部屋の移動は懐中電灯でします。

次女の帰りを待って、カセットコンロでご飯を蒸し、ソーセージをゆでて、後はバナナなどを食べてしのぎました。

暖房はできないので、ダウンジャケットを着て、ゆたんぽを用意しました。

そんな感じで、早々に就寝しましたが、未明の4時前ごろ、次女が突然起きだして1階へ。1階のテレビが大きな声をだしたので、目が覚めたということでした。ようやく、この時間に復旧したので、朝はいつものようにできるとわかってホッとしました。

その日は、朝から、テレビに映し出される映像、1日中流される被災地の様子に、改めて言葉をなくして見続けました。

14日からは、輪番停電があると聞き、東電のホームページで確認しましたが、同じ地区でも2つに分かれていて、そのどちらかかは明らかではありません。家は2グループか、5グループで、2グループだと9時20分~13:00と18:20~22:00.5グループだと15:20~19:00というところまでわかりました。いづれにせよ、朝は大丈夫そうなので、とりあえず9時20分までに家事を終えようと思います。

先の停電を振り返る限り、夜の停電は厳しいことが予想されます。自主節電がなかなかできない私たちの正念場かもしれません。明るいうちにしっかり、先手仕事で対処したいものと思っています。

自然の恵み

3月になったというのに、先週は寒い日が多く、冬に逆戻りしたようなお天気が続きました。それで、富士山も南斜面のすそ野まで雪の衣を着た姿となりました。

それでも、近場のイチゴ狩りの様子がテレビで紹介されたり、河津桜にメジロが訪れたりと、春は着実に近づいているようです(メジロは1回家の木にもやってきました)

昨日は、花菜ガーデンのサポーターの更新研修に出かけました。「花菜ガーデン」は5日で1周年を迎え、華やかな雰囲気に包まれていました。 午後には花菜スクール「へらへら団子作り」に申し込んでいたので、久しぶりにゆっくり、施設内を巡りました。

図書のコーナーでは、紅茶の本とチャペック短編集を手に取りました。お昼は、レストランでナポリタン&ドリンク。人の入りはほどほどで、静かなテータイムが過ごせました。

       

「へらへら団子」というのは、横須賀市西部の佐島地区に伝わる郷土料理で、農林水産省が選定した郷土料理100選に選ばれている和菓子です。 生地は小麦粉と水だけ。それをよくこねて、沸騰したお湯でさっとゆでるだけ。そのとき、普通の団子のように丸くしないで、ちぎった生地を手のひらで薄く伸ばしてへらのようにして湯に放つので、へらへら団子という名が付いたということです。

             

 その後、こし餡にからめていただきます。

あと少しで春になれば、また植物の成長の1年が始まります。自然の恵みを感じながら、このガーデンサポーターを楽しみたいと思います。

*自然の恵み-最近のメモ

①ドクダミ化粧水http://wp.me/p18UMA-mーついに使い始めました。容器に移し替えればこんなにきれいな色

②クチナシの実―乾燥させて、ガーゼに包んですりこぎなどでつぶしてご飯を炊くときに混ぜると、サフランライスのような黄色のご飯になるそうです。やってみようと思っています。

*今月の予定ー大豆で味噌作り(材料がもう届いているので急がねば)、と文旦が届いたら、ジャム、ピールなどを作ります。

2月26日のウエディングに

この週は、とにかく落ち着いて日々を過ごそうと思っていました。

それで、外出は最小限にして、家で小物などを製作する日々でした。娘と私はお互いに何かこの機会に記念になるものをと考えていましたが、思いつかない日々だったのです。

結局私は、そのまま何も用意はできませんでしたが、その気持ちのままピアノカバーを完成させました。

娘は挙式にさきがけて、結婚生活をスタートさせていますが、式前日に家に何かを取りにやって来ました。ちなみに、この日は、生温かく春1番が吹いて、スギ花粉が大量に飛散されました。

挙式当日は、打って変わって冬晴れの日で、富士山と青空、凛とした寒さの日になりました。寒さの中で、春の光を感じる…そんな日を想像していた私は、このお天気に大変満足しました。

チャペルの式と披露お食事会の中身は、すべて挙式する二人がホテルと相談して決めたもの。ささやかな手作りもありましたが、二人も知らないサプライズもあり、それぞれの場面で、沢山の人が良い時間を作り上げてくれていることが感じられるものでした。また、親族だけの結婚式でしたので、全員の自己紹介とメッセージの時間も取られ、終始アットホームな雰囲気に包まれていました。

両親への感謝の花束は、”ありがとう”の音楽と共に、それぞれ自分の親へ渡されました。娘からは、花束の他にプレゼント&お手紙もありました。プレゼントの中身は、メモリアルフォトー成長の記録が6シーンに収められていました。

  

これをピアノの上に飾るために、私はピアノカバーを作っていたのかもしれません。

半年前の姪の結婚式のときと同じく、今回も大阪の母がかけつけてくれて、元気なおばあちゃんの存在感を示してくれました。数日間、こちらに滞在して昨日、大阪に戻りました。記念すべき日が、こんな風に過ぎてゆきましたが、今朝がた、今日は遅番でと、娘から電話があり、お料理の下ごしらえの分からない点について、2,3話しました。

長女の人生の第2ステージの中でも、いつまでも役立つ親として登場したいものだとつくづく思っています。